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未完の問題作『ロカ』に横たわる”本当のこと”

中島らもの急逝により未完結となった作品、『ロカ』。死を予期していたのではないかと思うほどに世界観が爆発しているこの問題作は、一切の”うわべ”がなく本音に満ちている。彼が『ロカ』で伝えたかった”本当のこと”とは何だったのだろうか。

目次

Illustration by エノシマナオミ

未完の近未来私小説『ロカ』

中島らもの小説には私小説が多い。彼の代表作のほとんどは私小説かエッセイであり、基本的に過去の自分について書いている。しかし、中島らも最後の長編小説『ロカ』は一味違う。

「近未来私小説」と題されている通り、未来の自分を想像して描いたものなのだ。中島らもは52歳で亡くなったが、『ロカ』の主人公・小歩危ルカは68歳の老人である。つまり、15年後の自分を描いた私小説だったということだ。そんな『ロカ』は、中島らもの想いが詰まっているであろう印象的な一節からはじまる。

もう、エンターテインメントはやめよう。お楽しみはここまでだ。これからは本当のことだけを言おう。私という人間の「骨」の部分だけをさらけ出そう。そう決めた。

中島らも『ロカ』講談社、2005年

その宣言通り、『ロカ』の中には便宜を図った物言いは存在しない。差別用語も頻繁に登場する。彼が自らの死を悟っていたのかどうかは定かではないが、どこか「これで最後」というメッセージを感じるくらいに尖った作品となっている。彼の伝えたかった”本当のこと”を覗いてみよう。

まずは、勝手にあらすじを書いてみる。

あらすじ

酒と大麻と鮟鱇鍋が大好きな68歳の人気作家、小歩危ルカ(こぼけ るか)。小説『死ぬまで踊れ』が大ヒットし巨額の印税を得た彼は、「面倒臭い」から原稿を書くのをやめた。奇妙なWネックギター「ロカ」と共に新宿のホテルで暮らすようになった彼はNHK、宗教、まずい蕎麦屋の店主などこの世の大嫌いなもの全てに喧嘩を売りながら人生を謳歌していく。

小歩危ルカを通して語られる中島らもの本音

『ロカ』に出てくる登場人物は少ない。美しい女の子であるククや伝説のロッカー、クレオなどの主要人物は登場するものの、物語は主に過激な老人・小歩危ルカというキャラクターを中心に進んでいく。中島らもは『ロカ』にて小歩危ルカの内面を通して、本音を教えてくれる。そんな彼の本音がにじみ出た部分の抜粋から、彼のメッセージを紐解いてみよう。

なかったことにされる現実

『ロカ』の序盤に、主人公・小歩危ルカがNHKの生放送番組に出演するシーンがある。彼はこの番組上で、「乞食」という言葉を発して注意されたことを発端に、こう発言する。

”乞食”という言葉が禁止されるということは、乞食の存在そのものを無化し、社会的死者に追い込むことだ。

中島らも『ロカ』講談社、2005年

「乞食」という言葉を放送禁止用語として公の場から消すことで、「乞食」はこの世界から消され、なかったことにされる。都合の悪いものを表現の中から削除して解決していくメディアのやり方に、中島らもは嫌気がさしていたのだろう。それを象徴する『ロカ』の登場人物、ククのセリフがある。

言葉を変えることで現実なんて変わらない。

中島らも『ロカ』講談社、2005年

言い方や表現を少し変えただけでは、都合の悪いことがかすんで見えづらくなるだけで、現実は何も変わらない。ここでは主に「言葉狩り」について述べられているが、表現を変えて解決するというのはなにも言葉狩りに限った話ではない。昨今、麻薬取締法違反で逮捕された芸能人の出演作品がお蔵入りになったりする。麻薬でなくとも、なにか犯罪を犯せば公の場から締め出される。公の場から締め出されて、そうした人たちは「いなかったこと」にされていく。キレイな経歴の人たちだけが映った世界は今日も平和に見える。そんな偽りの平和を小歩危ルカは作中で崩しにかかるのだ。

NHKで吸うマリファナほど美味いものはないな、と私は思った。

中島らも『ロカ』講談社、2005

小歩危ルカが生放送の最中に、タバコと偽って堂々とマリファナを吸うシーンがある。マリファナは所持そのものが法律違反であり、大麻所持で捕まった人間は通常メディアから締めだされる。しかし、ルカはカメラの前で堂々とマリファナを吸うことで通常映らないはずの”犯罪者”である自分をカメラに映させるのである。実際に存在する「都合の悪いもの」から目をそらすということに、中島らもはずっと疑問を抱いていたに違いない。

いいんだぜ

いいんだぜ いいんだぜ

いいんだぜ いいんだぜ

君がクロンボでも 君が朝鮮人でも

君がイラク人でも 君が宇宙人でも

いいんだぜ いいんだぜ

中島らも『ロカ』講談社、2005

主人公・小歩危ルカが作中で歌う歌に「いいんだぜ」というのがある。これは歌詞に放送禁止用語・差別用語をふんだんに盛り込んだ歌なのだが、全く嫌な感じがしない。それもそのはずで、この歌の歌詞は表現の歪曲によって「なかったこと」にされてしまう言葉をあえて出した上で、「君はそれでもいいんだぜ」と優しく歌っているからである。「傷つく人がいるかもしれないから」マイルドにする婉曲表現よりも、あえて口に出した歌の方が優しい感じがするというのは皮肉なものだ。実はこの「いいんだぜ」という曲は中島らも作詞・作曲で実際に存在する曲である。彼の愛が伝わるいい歌だと思う。ぜひ聴いてみてほしい。

精神の緑内障

『ロカ』には、宗教を痛烈に批判している一節がある。

宗教界にはそれぞれのヒエラルキーというものがあって、それを少しずつ登っていくことになる。これはサラリーマンの昇格=昇給とよく似た喜びだ。かくして宗教にどっぷりと浸り、さまざまな「体験」を経たものは宗派外の誰のいうことにももはや耳を傾けない。私はこれを「精神の緑内障」と呼んでいる。

中島らも『ロカ』講談社、2005

ここで述べられている「宗教」とは、文脈上はキリスト教のような信仰に基づいたものを指している。しかし、「サラリーマン」についても触れられていることからわかるように、ここでの「宗教」の真に意味するところは文字通りではない。「宗教」とは会社や学校といった、「ルール」や「序列」のある共同体全てのことを指していると解釈して良いだろう。他者の定めた狭い価値観の中に閉じこもり、そこの「ものさし」のみでものを考えることは、自己意識と実態との乖離を招いてしまう。自分の価値観を他者に依存してしまうことに警鐘を鳴らしているように感じる。

ヒマが世界を形作ってる

小歩危ルカがお気に入りの女の子・ククに鮟鱇の交尾について語るシーンがある。とても小さい鮟鱇のオスは精子の放出のために存在し、交尾が終わるとメスに取り込まれ消えてしまう。カマキリのオスも交尾の後にメスに食べられる。人間もそうあるべきだとルカは主張する。

ニンゲンのオスはメスを受精させれば本来は何もすることがない。ヒマなもんだから要らないことばっかする。宗教を作る。国家、政治を作る。戦争をして殺し合いをする。神学、哲学、文学、絵画を作る。強盗をする。人殺しをする。レイプをする。要らざることばかりだ。男は身長十センチくらいで、交尾後は女性の身体の中に埋没して溶けてしまえばよい。

中島らも『ロカ』講談社、2005

この世の大体のことはヒマの産物であるという視点はとてもユニークだ。たしかに、食って寝ていれば生きていけることを考えると、この世は衣食住以外の余計なことが多すぎる気はする。シンプル・イズ・ベストという言葉があるが、私たちの世界は少々複雑になりすぎたのかもしれない。中島らものこの思想は他の作品にも見て取ることができる。例えば『バンド・オブ・ザ・ナイト』のラリっている部分にはこのような一節がある。

なぜ男たちは人類という巨大な生物ひとつの細胞でしかないことを認めようとしないのか。なぜ男は受精以外の役割りを世界に対して求めようとするのか。なぜ男の作った機械のような世界の構造はガジガジと雑音をたてて機能するのか。…

中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』講談社、2000年

「ヒマ」はあまりいい言葉としては使われないが、どんどん複雑化していく社会に住んでいる私たちは実は壮大な暇つぶしをしているだけなのかもしれない。そんなことを考えていると、ヒマをポジティブに捉えた曲、スチャダラパーの『ヒマの過ごし方』を思い出す。いい曲なのでぜひ聴いてみてほしい。なんにせよ、難しいことを考えず、シンプルに生きていけたらそれに越したことはない。中島らもの、シンプルに生きることへの憧れが表れた一節を紹介しよう。

これだ。この感じなんだ。何もせず、何も考えず、意味を求めず、表現を放棄し、社会的存在であることを拒否し、ひたすら心のたゆたいに身をまかせている。こういう時間を私は”生きている”と呼びたいな

中島らも『ロカ』講談社、2005

いい文章の書き方

クレオが小歩危ルカに対して「どうしたらいい文章が書けるようになるか」と訊ねるシーンがある。その質問に対して、ルカはこう答える。

一番大事なのはその書き手にどうしても人に伝えたい事実、考え、想いが有るかどうかってことなんだ。溢れ返る想い、思考があってこそ”書く”という行為が必要になってくる。ただし、その想い自体が陳腐なものであれば、できる文章も当然駄文だ。

中島らも『ロカ』講談社、2005年

中島らもの本には彼の価値観が色濃く反映されているが、その理由がよくわかる回答だ。文章に限らず、全ての表現する行為において言えることだと思う。絵だろうと文章だろうと映画だろうと、「表現する」ことは「表現する対象」があって初めて成立する。その対象である事実や考え、想いが強くあればあるほど表現自体に味が出て良いものになるのだろう。表現手法というものが存在する限り、そこに必ずセオリーや暗黙のルールが存在する。しかしそうしたものに対して、小歩危ルカは反論を投げかける。

普通人がおちいりやすい罠は形式主義に支配されてしまうことだ。

中島らも『ロカ』講談社、2005年

ルカは和歌の定義である五七五七七のルールでさえ、そんなものいくらはみ出したって構わない、と述べる。セオリーに乗っ取ることによる美しさも存在するが、本当に伝えたいことがあれば、セオリーなんて無視しても良いんだと思わせてくれる。セオリー通りじゃ新しいものは生まれない。

人間の役割と生と死

『ロカ』は主人公・小歩危ルカが最愛の女の子、ククへ会いに行く途中に職務質問を受けるシーンで終わる。それまでの展開に習うと、職務質問をしてきた警官をまくし立てるのだろうが続きがないため定かでない。不謹慎かもしれないが、『ロカ』は中島らもの急逝により未完で終わることで作品として完成したのではないかと思う。そう思うのは、『ロカ』の序盤に次の一節があるからだ。

人間にはみな「役割」がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。私にまだ役割があるのだろうか。

中島らも『ロカ』講談社、2005年

前述の通り、中島らもは『ロカ』で”本当のこと”しかいう気がないと宣言している。心に秘めた想いを『ロカ』の上で表現しきった彼は、その役割を終えたのではないだろうか。しかし、役割がどうだとかいうのは結果論であって、生きてるうちはわからない。自分の役割がわからないこの世界で、私たちはどう生きていけばよいのだろう。『ロカ』作中で、中島らもは彼なりのヒントを与えてくれている。最後にそのヒントを紹介して終わろうと思う。

嫌いなところばかりでこの街はできている。ただ、人間というのは快適な場所にばかりいるべきではない。寒さに震え、風に息をふさがれ、空腹に耐え、便所を探し求め、不快と不満とをバネにして歩くべきだ。

中島らも『ロカ』講談社、2005年

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