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スケートボードシーンにおけるオリンピックへの期待と不安

スケートボードが2020年東京オリンピック競技に決まって以来、スケートシーンにおいては賛否両論様々な意見が飛び交った。そして、2020年を迎えオリンピックが近づく今、スケーターが抱いていた期待と不安はどのように変わっていったのか。それらを整理して、今一度スケートボードとオリンピックの関係性について考え直してみる。

目次

image by エノシマナオミ

スケートシーンとオリンピック

2016年8月、スケートボードが正式にオリンピック種目になることが決まった。オリンピック競技になることはスケートボードに注目が集まるということを意味するにも関わらず、スケーターは手放しに喜ばない。その背景にはストリートを重んじるスケートボード特有の文化や、スケートボードとは何なのか?という根本的な問いがある。期待と不安の間で揺れる日本のスケートシーンと東京オリンピックの行方を追う。

オリンピックへの期待

2020年の東京オリンピックが近づいてきており、テレビのCMなどでスケートボードを見ることも多くなった。しかし、スケーターの視点から見るとオリンピックをきっかけにスケートシーンが盛り上がっているとは言いづらい。それは、スケーターがオリンピックに抱いている期待よりも不安の方が大きいことに由来している。まずはそのオリンピックがスケートボードにもたらす正の側面から見ていこう。

プロスケーターの地位

オリンピックにスケート業界が最も期待していることはスケートボード市場を大きくすることだろう。アメリカのプロスケーターの中にはスケートボード一本で億万長者になったTony HawkやRyan Sheckler、Nyjah Hustonらがおり、夢のある職業だ。一方、現在の日本ではプロスケーターと呼ばれる人でもスケートボードだけで生計を立てることは難しい。

東京オリンピックでスケートボードが人気になれば、競技人口は増えてスケート業界にお金が落ちる。CMなどへの露出ももっと増えて、ライダーのお金になる仕事が増える。これがスケート業界が期待するオリンピックへの効果だ。簡単に言えば、「スケートボードで食える人が一人でも増えたらいい」という意見。

スケートボードで食える人が増えれば、スケートボードのプロを目指す人が多くなり、結果としてスケートシーンは盛り上がるかもしれない。しかし、小さい頃から子供にプロを目指して練習させる親が以前より増えたようにしか見えないのが現状だ。加えて、食えるかどうかという視点はプロを目指していない多くのスケーターにとってはそれほど大きなメリットにはなり得ない。

大企業の参入

コカコーラ社が西村碧莉・詩音 姉妹のスポンサーになったり、モンストで知られるmixiのXFLAGが堀米雄斗をスポンサーしたりと、一見スケートボードと関係のなさそうな大企業がオリンピックを機に参入してきている。これは本来他の場所に渡るはずだったお金がスケートボード業界に落ちてくるという点では良いことだ。

Yuto Horigome by XFLAG SPORTS

しかし、これにはスケートボードを大企業が”ビジネス”として利用しているだけで、スケートシーンを育ててきたローカルショップには直接還元されないのではないか、との声もある。ビジネスとして利用されても、結果的にスケート人口が増えてローカルショップの売上も上がればそれでいいという見方ももちろんできる。なんにせよ、コンテストで結果を出したライダーの靴が全てNIKE SBに変わっていく日本のスケートシーンを見ていると、大企業の影響力が強すぎるのも考えものだという気はする。

スケート環境の整備

スケートボードがオリンピック種目になったのを機に、日本のスケートパークの増設・リニューアルが活発化した。これは全スケーターにとって大変喜ばしいことだ。NIKE SB dojoや徳島県のUZU PARKなどが新しく開設され、舞浜や鵠沼のスケートパークは大幅にリニューアルされた。新横浜のスケートパークも2020年にリニューアルが決まっており、噂レベルであればあちこちでスケートパークができるというような話を耳にする。

NIKE SB dojo ロゴ

スケートパークが増えることを嫌がるスケーターはいないが、スケートパークの増加は日本ではストリートスケートの排除と同じ意味を持つ。「スケートパークがあるんだから、街中じゃなくてパークでやればいいじゃん」という論理だ。スケーターであれば警察に何度となく言われたことのある言葉だろう。しかし、ストリートスケート、つまり街中でスケートボードをすることはスケーターにとっては大きな意味があり、ストリート抜きでスケートボードを語ることはできない。

スケート文化へのディスリスペクト

スケートボードのオリンピック競技化に良い顔をしないスケーターは多い。その理由は様々だが、共通して根底にあるのは「オリンピックサイドによるスケートボード文化の軽視に対する憤り」だろう。スケートボードを新種目として迎えるにあたって、スケートボードの文化を受け入れるというよりも、「オリンピックのルールに合わせろ」という圧力が働いているように感じる。

西村碧莉のSLSでのヘルメット着用

2019年1月、SLS(Street League Skateboarding)のSuper Crownで西村碧莉が優勝し、女子ストリートスケートの世界王者になったことはニュースで大きく取り上げられた。この時、西村碧莉はヘルメットを着用して滑っていたが、本人にとっては不本意な着用だったようだ。彼女の父親がinstagramにて暴露している。

SLSプロとして招待されているのにまさかの18歳未満はヘルメット着用義務あり!

(中略)

これが某東京大会へのつまらない部分だね笑

西村碧莉の父親のinstagram より

これは大会当時17歳だった西村碧莉が、「18歳未満の日本のオリンピック候補選手」という理由で、SLSの会場でヘルメットを着用しなければいけなかったということだ。多くのストリートスケーターにとってヘルメットは”イケてる”ものではないし、できれば被りたくないものだ。

スケートボードにおいては、技の動きだけでなく服装までも含めてその人のスタイルである。オリンピック関係者にとってはたかがヘルメットでも、スケーターの立場からするとそれはその人のスタイルを侵害していることになる。こうしたスケートボードへのリスペクトの欠如が多くのスケーターがオリンピックを”イケてない”と捉える理由だ。

オリンピックにおける、ヨコノリ文化へのリスペクトの欠如に関しては先例がある。2010年バンクーバーオリンピックでの國母和宏の腰パン騒動だ。狭いコミュニティ内で醸成された文化も、オリンピック競技という枠にはめられたに瞬間に大衆のものだという認識に変わってしまう。

オリンピック候補者のストリート禁止

スケート文化へのリスペクトの欠如が表れたエピソードがもう一つある。「日本のスケーターでオリンピック出場候補になると、ストリートでスケートボードをしてはいけない」という話だ。これは噂レベルで出回った話ではあるが、各地で耳にする情報なので似たようなお達しがあったことは間違いないだろう。スケートボードの「ストリート」という競技への出場を目指す選手が、ストリートでスケートボードができないというのはなんとも皮肉な話だ。

ストリートスケートの意義

ここまで見てきたように、スケーターと大衆のスケートボード観がもっとも食い違うのがストリート(路上)でのスケートボードだ。多くの人は「危ないから専用の場所でやってよ」と思っているだろうし、オリンピックサイドの人間もおそらく同じ考えだろう。しかし、スケータにとってストリートスケートはなくてはならない存在だ。この両者の認識のギャップが埋まらない限り、お互い理解し合うことも、納得のいくオリンピックになることも、スケートボードが日本で文化として受け入れられることもないだろう。

なのでそのギャップを埋めるべく、「スケーターにとってなぜストリートが大切なのか?」ということに焦点を当ててみる。

スケートボードはスポーツなのか?

スケーターにとってのストリートを語るには、まず「スケートボードとは何なのか?」について考えなければならない。この問いにEvisen Skateboardsのディレクター、南勝己が興味深い答えを出している。

スケートボードってなんなんだっていう。

競技の中で、カルチャーだって言う人もいれば、アートだって言う人もいるし、いやスポーツだって言う人もいるし、複雑なものなんですね。

スポーツでもカルチャーでもアートでもなくて、いろんな側面があるから一緒くたに言えないというか。スケートボードはスケートボードって言いたいっすね。僕は。

GQ JAPAN『STREET STORIES – #1 SKATEBOARDING 』より

南勝己の言うように、スケートボードは色々な側面を持っている。しかし、全ての面に共通するのは「スケートボードは表現の形の一つ」であることだろう。トリックの形、服装、スケートボードに対するスタンス、滑る場所、一緒に滑る人…それら全てが合わさって1人のスケーターの「個性/スタイル」を作り上げる。個人でやるもので、どこでも出来るものだからこそ、スケートボードはスケーターの日常と一体化する。完全に生活に溶け込むものだからこそ、スケートボードにおいては「ライフスタイルまで含めてスタイル」という見解が存在するのだろう。

先ほど、オリンピックはスケートボードへのリスペクトが足りないと書いた。それもそのはずで、オリンピックは「スポーツの祭典」であり、色々な側面を持つスケートボードの「スポーツ」という面にしか注目しないからだ。スケートボードは単なるスポーツではない。

ストリートという自由の形

スケートボードがスケーターにとって「表現」の形の1つであるとするなら、スケーターにとってストリートスケートとは何だろうか。

当たり前の話だが、街はスケートボードをするために作られてはいない。そして、スケーターにとってはスケートボード用に作られていないストリートでスケートをする、ということに意味がある。本来スケートボードをやるべきでない街の中の縁石、レール、階段などをどう使うかを考え、トリックを決める。その場所でどんな技をチョイスするのかは一人一人異なるため、ストリートで滑るということは街中で自分を表現することと同義だ。

また、ストリートのスポットにはそのスポットで滑ったことのある人にしかわからない難しさがある。セキュリティの厳しさ、路面の良し悪し、人通りの多さなど実際にトライしないとわからない難しさが、ストリートスケートをより一層おもしろいものにする。

とはいえ、街中でスケートボードをすることは通行人や住人に迷惑をかけてしまうことは間違いない。そんなストリートスケートに対するスケーターの思いを南勝己が代弁している。

街の方が自由度が高いですね。

迷惑はかけちゃうんですけど、申し訳ないんですけど、おもしろい。

GQ JAPAN『STREET STORIES – #1 SKATEBOARDING 』より

いつでもどこでも誰とでも楽しめるスケートボードの最大の魅力は「自由」なことだ。そんなスケートボードの自由がもっとも発揮される場所といえば、ストリート以外にありえない。スケートボードが日本で1スポーツとしてでなく、スケートボードそのものとして根付くことを切に願う。

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